12月26日、クリスマスも過ぎた日曜日。私は朝教会へと向かう。
前日くらいに見ていた近所の教会。礼拝があるというので一度行ってみようと思い立った。関東にいたとき時折教会に入ってみていたが、今回は悩みがあるので、まあ、軽い気持ちではあるが、話だけでも聞いてみようと。
車で10分ほど走り、岡山県でも古い教会、香登教会に入る。まだ6時半からの礼拝には出れなかったが、9時からの礼拝には参加できた。
礼拝堂には一番のりで、まだ誰もいなかったが、少し信徒の名前の付いた棚を見たり、集会の写真を見てみた。岡山市から備前市全域の信徒の名前が地域ごとに書かれており、備前だけではなく備前とその周辺の信徒さんが通う教会だと分かった。写真では教会に出入りしている人の集合写真が出ていたが、子供の数が少しすくなく、高齢者が中心のように思えた。最近のネットの記事などを見ていると宗教そのものへの帰属が減ってきているともことで人口減少も理由にあるのかなと思えた。
礼拝の時間に近づくと女性が案内をしてくれて、聖書と聖歌の本を渡してくれた。私は勝手がわからないままに一番後ろ付近の席に座り、礼拝の時間までのほほんと外を眺めたりしていた。
時間が来ると牧師さんが来て、初めてということで住所を書いた。
牧師さんと司会者がステージに立ち、話始める前に、オルガンが響き始めた。はあ、となるほどと思っていたら、司会から神についての話が始まり、聖歌をうたうように指示がでた。私は歌などめったに歌わないのだが、なんとなく音痴な歌を歌ってみた。そして着席。
そして牧師様のお話が始まるのだが、その時のお題がルカの福音書17章11~19節である。「感謝し礼拝する民」と題し、説教が始まるのだが、端的に話を要約すると。
けがれた民が一人いた。そしてその民はイエスキリストに聞いた。そしてその穢れをきめてもらいなさい。そしてその穢れが清められるが、10人いた。しかし、その中の一人のみが神への感謝をささげたが、他の民は立ち去ってしまった。と、いうことである。
ここから聞いていた話によると、ようは神様はお救いしてくれる。それは心の中に神がいる。しかし、救うだけではなく、その救った人を必要としているということらしい。私は神は万人を救うことがあると思うのだが、その後も神様への信仰を神様自身が必要としているとは考えたことがなかった。そうか、私個人の体験からすれば使い捨てされてしまう労働者のような気持ちなのかなと思えたが、心の問題として他人に助けを求めたあとも、その助けた人もお互いに必要とされるべきということなのだろうか。とまあ、いろいろと考えてしまう。ただ一つだけ思ったことに、神様にはなれない。だから尊ばれるということだけだ。牧師になる人というのはかなり勉強しているなと思えた。軽い気持ちで入ったから、聴いただけだが、そういうものに帰属するのも悪いことではないかもしれないと思えた。ようは私としては神さまだけに信仰を抱くというよりは、助けてくれる人を求めているということかなと感じた。それが信仰心というならば神様は一人ひとりの心の持ちようとその集まりだと思えた。また礼拝にちょくちょく行ってみようかなと思う。
礼拝のあと、何となく海に向かう。宝伝の砂浜で、人気もないから少し写真でも撮りに行こうかと思いたつ。ついてみるとやはり人はほぼいない。テトラポットの上に子供と大人が二人いるくらい。あとは近所の人が墓掃除に来ているだけ。遠方を眺めた。水鳥の群れが飛び立っていくのが見える。そんな感じでカメラでパシャパシャと撮影。あとで見てみたが少し写りが悪いようだ。逆光だったからかな。
歩いていると、最近話になる海ごみの小粒のプラスチックが砂に紛れて散乱しているのがわかった。大きなゴミは袋に入れられていてまとめられていたが、そうでないゴミは残ってしまう。高校生がゴミ拾いをしているニュースが流れていたけど、こうした極細のものはどうなるのだろうと、海をながめたりして思う。今日はそんな感じだ。
人間だれしもが少しは悪さをしている。そんなことを考える一日だった。
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