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食をとおしてつながるということ 宗教

 食から何を考えることができるだろうか? 食べるという行為は人間にとって必ず行わなければならないことだ。人間だけでなく生きとし生けるものすべてにとって必要不可欠な行為。そこからつながっていく人間の行いは農業、漁業、労働、環境問題、宗教はては宇宙までである(宇宙食)。私たち人間は食を通して考えることを身につけてきたとも移言える。このことを基本にいろいろなことについて考えていきたいと思う。

 映画「聖者たちの食卓」ではインドのシク教徒の総本山ハリマディル・サーヒブで10万人の食事が無料で提供されている。500年前から続くこの行事は宗教、人種、地位など関係なくすべての人が平等に扱われる。映画の中では食事を作るところから、使った食器を洗うところまで寺院での一日が記録されている。食事をとるだけではなく、調理するということ、食器をかたづけるという労働はすべて無償で行われている。人間にとって生きていく一番重要な行為を差別することなく平等に提供していることはごはん党の考えとしては重要であり、感銘を受けるところである。そして共用食堂でのルールはどんな家庭でもできれば守られるべきことである。私のように食べたら食器は置きっぱなしというわけにはいかない。5000人の老若男女が一同に集まり食事を行うのである。そして無償で、そこには、「すべての人々は平等である」(バレリー・ベルトー フィリップ・ウィチュス ★「聖者たちの食卓」公式サイト ) という教えを前提に、守るべきルールがある。ルールを守ってみんなで食べる食事。そのあとは一日を一生懸命生きていける。

宗教では食については考え方がいろいろある。教科書でもおなじみだが、イスラム教では酒と豚は禁止、ヒンズー教では牛は食べれない。今はどうかはわからないが仏教では肉食は禁止されている。

 肉食が厳禁な仏教では精進料理がある。肉などは一切なく、豆、蒟蒻、野菜だけで作られた料理だが、京都などの店で出されているというニュースやサイトがたまに見かけられる。

 実際にどんなものか食べてみたくなり、岡山県の総社市にある井山宝福寺にある金匱という店に食べに行ってみた。井山宝福寺は臨済宗東福寺派の寺院。有名な画聖雪舟さんが修行を積んだ寺としても有名である。立派な山門を抜けて、正面に見える仏殿には天井に巨大な龍の絵が描かれ、見ていて迫力がると思えた。禅宗の寺に特徴的な丸窓も見られる。仏殿を横目に、歩いていくと右手に雪舟さんが涙でネズミの絵を描いたという方丈が見られる。さらにそこをまっすぐと進んでいくと国指定重要文化財の三十塔がある。その脇を歩いて黄色にそまる木々を抜けていくと金匱がある。そこで精進料理を食べた。内容は肉抜きの野菜料理であるが、女将さん? に聞いたところ。味は薄味に仕立てているとのこと。実際食べていて味は薄いなと感じた。日ごろから塩コショウの聞いた焼き鳥を食べている私としては少し物足りなく。これだけで生きていけと言われるとかなり厳しい。精進料理の歴史をネットなどで調べてみると、かなり長く。宗教の広まりと国により変わってくるという話が出てくるが、体験してみて感じたことは食べるということのありがたみ。今の飽食の時代のありがたみを感じた。宗教と食事。考え方にもとずく食物の選び方、調理の仕方。まだまだ調べればきりがないが、つながりは人の心と体のありよう。精神にも影響をおよぼすのである。ぼち。




料理が運ばれてくる途中の状態。金匱の精進料理

山門

仏殿

三重塔


参考資料


★「聖者たちの食卓」公式サイト

・総社観光ナビ 総社市公式観光WEBサイト

・精進料理 金匱

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